森友問題で公文書のあり方が問題となりました。
具体的には、2017年2月に国有地売却につき8億円の減額と安倍昭恵総理大臣夫人との関わりが報道され、国会でその真偽について追及をされていたにも関わらず、財務省は、決裁文書や交渉記録は廃棄したと答弁しながら、裏でこっそり、交渉記録を廃棄したり、決裁文書の改ざんを行っていました。
言うまでもないことですが、行政行為は公正でなければなりません。立法府は法律を制定し、行政府による恣意的な権利行使を規制します(憲法41条)。行政府は予算案を作成し、政令を制定するなどして、立法府に対して法律の誠実な執行の責任を負います(憲法65条、66条3項、73条)。
そして、憲法は、「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」(15条)、「国務大臣、国会議員・・・・その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負」う(99条)と定め、実際にこうした制度を運用する国会議員や大臣はもとより一般の公務員についても、権限の濫用を禁止しているのです。
もし、これがゆがめられ、一部の国民に対する利益誘導が許されるとすれば、国民が投票し意思表示すること、国民の主権者たる意思など無視しても事実上何ら問題なくなってしまいます。
国有地の売却問題を1つとっても、誰に売るかで値段が大きく変わるということでは不公平になります。国有地は国民の財産ですから適正な対価を伴って処分をされなければならないというのが財政法に定める規律で、財務省はその法律に従って国有地をいくらで売るのか決めるべきとされています。この点について国会から疑惑が提起されたときは、当然のことながら、財務省はきちんとした資料とともに国会で説明をするべき責任を負っていました。本来であれば、2017年2月の国会で審議が始まった段階で、行政府の長は、全ての資料を国会に開示し説明責任を果たすのがその職責でした。ところが、裏で資料の改ざんや廃棄を進めていたというのは、まさに国会による監督を免れようとしていたわけで、これ自体憲法をないがしろにする行為です。そして、その上、政府は改ざんと廃棄の動機について、第三者による解明が進まない状況で事態を収束させようとしているわけで、国民主権が軽んじられているともいえるでしょう。
今後も、行政で何か疑惑が生じた際に、国会に提出される資料が廃棄されたり、中身が書き換えられたりしたのでは、行政を監督しようにも国会としては手も足も出ない事態になってしまいます。今回の事件は、都合のよい資料はでてくるが、都合の悪い資料は出てこないことを許すという悪しき前例となりました。
公文書の管理に関する法律において、公文書は「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」とされ、国民主権の理念にのっとって、行政が国の行為を現在そして将来の国民に対して説明する責任を全うするための財産と位置づけられています。
公務員の方たちと面会すると、本当に几帳面に記録をとっておられます。その時々にきちんと記録をし、その積み重ねが、将来における日本の歴史そのものであり、行政が行ったことに対応して記録が残されていることが信頼の源であるのです。今回のことをうけて公文書の管理に関する法律の改正が取り沙汰されていますが、保存期間を短くする文書が恣意的に設定されないか、官僚が職務で作成した文書が個人的なメモとして公文書の対象から除外されないかなど懸念はつきません。